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正信偈の解説と現代語訳

正信偈の意味【宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽】全文現代語訳

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現代語訳

尊い大乗だいじょうの法を説き歓喜地かんぎちの位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生するだろうと仰せになった。

この度は、正信偈「宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」について意味を分かりやすく解説します。

語句説明

大乗だいじょう・・・大きな乗り物という意味。自ら悟り仏になると共に、広く一切の人々も救いたいという、自利利他じりりたの両面のある菩薩の教え

歓喜地かんぎち・・・浄土に参り悟りに至ることが定まった時点でよろこぶ境地のこと

歓喜って、どんな心なの?
仏教を聞いて嬉しいって思うことや、己の姿に気づいた心境じゃないかな
宗教だから涙を流して、いつも喜んでいなくちゃ駄目なのかと思ったよ

正信偈の原文

宣説大乗無上法
せんぜつだいじょうむじょうほう
証歓喜地生安楽
しょうかんぎじしょうあんらく

正信偈の書き下し文と現代語訳

【書き下し文】大乗無上の法を宣説し歓喜地を証して安楽に生ぜんと

【現代語訳】尊い大乗の法を説き歓喜地の位に至って、阿弥陀仏の浄土に往生すると仰せになった。

正信偈の分かりやすい解説

有無の見

前回までにお釈迦様は予言の中で、後の世に南インドに龍樹という名の菩薩が出てきて、ものごとを認めることにこだわる「有の見」と、ものごとを認めないことにこだわる「無の見」の誤った考え方を一挙に打ち破るであろうと述べられました。

そのことを「正信偈」には「釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」(釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまわく、南天竺に、龍樹大士世に出でて、ことごとく、よく有無の見を摧破せん)と記されています。

お釈迦様の予言はさらに2句に続けられています。「宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」(大乗無上の法を宣説せんぜつし、歓喜地を証して、安楽に生ぜん)というところです。龍樹菩薩は、後の世に「大乗という、この上になくすぐれた法を伝え、歓喜地というさとりを得て、安楽国あんらくこく、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土に生まれるであろう」という予言をされました。

インド
龍樹菩薩について詳しく説明

龍樹菩薩について説明します。親鸞聖人が記された「正信偈」の中に登場し、仏教界に空の思想を広めた偉大な方です。 龍樹菩薩って名前だけでも、すごい強そうだよね 強くはないけれど、仏教界では八宗の祖とも言わ ...

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大乗とは

龍樹菩薩は、「大乗」といわれる仏教を大成させた人です。「大乗」とは、「大きな乗り物」と漢字で表されるように「全ての迷える人々を、仏にする教え」ということで、阿弥陀様のはたらき(救済)を大きな乗り物に例え、その乗り物(救済)に私達が身を任せる(乗る)ということです。

お釈迦様がお亡くなりになったのが2500年前、そして龍樹菩薩はおよそ2000年前。仏教の教えは世代を越えて伝えられてきました。最初からお釈迦様のお言葉(教え)を紙に書いて残した訳ではなく、お釈迦様が亡くなられてから100年ほどは、弟子たちがずっと口伝え(口伝:くでん)で教えを受け継がれました。まさに伝言リレーです。その中で、口に称えやすいような形になり、みなが口にかけて残ったのが、今のお経の言葉です。

お釈迦様の時代に、紙に書き残すことがなかったのは、紙が貴重な存在だったこともありますが、一番の要因は「紙に残したことさえも、諸行無常であり、紙もやがて無くなるもの」だから、人々が暗唱して口で伝えられました。
お釈迦様は、「人が生きるには、さまざまな苦しみ悩みを避けては通れない。そのような苦悩がなぜ起こるのかと言えば、それは、真実について無知であり、煩悩(欲望)が尽きない存在だからであり、人々はこだわるべきでない物事にこだわるから苦しみ悩むのである」とお説きくださいました。悩み苦しむ人々が苦悩から逃れる方法は、その原因である無知や欲望という様々な煩悩から離れなければならないと教えられました。
その生き方・方法こそ仏教の教えの始まりです。苦しみ悩みから解き離れる生き方、それが仏の教え。つまり仏教だったのです。

しかし、やがてお釈迦様の教えが受け継がれていく中で、その教えに差異が生じてきました。差異といっても、お釈迦様はたくさんの人々に教えを説かれているのですから、一律に同じ話をした訳ではありません。それぞれ悩みに答える形で、その人にあった話の内容をお伝えになりました。しかし、後の世に口伝で受け継がれる中で、お釈迦様がたくさんお説きくださった教えの中で、もっとも大事な部分という場所が、受け取り手によって違ってきました。お釈迦様の説かれた仏教とは、「大乗」という「すべての苦しみ悩む人々を救いたいがための教えである」という考え方と、それに異を称えた「自分ひとりが修行道を歩むことによって、煩悩の無くなった状態になり悟りを目指す」という考え方の違いが表れました。

その差異が生じてきた時、すでにお釈迦様は亡くなっているので、答えを聞く方法はありません。しかし、たくさんのお経を残されているので、そのお経からお釈迦様の真意(お心)を受け取ることはできます。

自分一人の悟りを目指した方々には大事な視点が欠落しています。自分一人が無知や欲望などの煩悩をなくした阿羅漢あらかんという境地に到達することを目指した伝統仏教の人びとは、命がけの熱心な修行に励みました。しかし、お悟りを開かれたお釈迦様の生き方はどうだったでしょうか?お釈迦様は35歳で仏になられ、80歳でお亡くなりになるまでの45年間、休むことなく人びとに教えを説き続けられました。それは、仏になることが出来た人だからできる生き方で、決して一人の修行で終わられた人生ではありません。すべての人が迷いから覚めて、真実に沿って安楽に生涯を尽くしてほしいと願われたからです。お釈迦様のお心(真意)とは、自分一人の悟りを求める生き方ではありません。

他にも『仏説無量寿経』に「出世本懐の文」や、『仏説阿弥陀経』には「無問自説」と言われるお経にお釈迦様の真意(お心)が明らかに表されています。

意味
お釈迦様がお生まれになった理由

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その差異が生じてしばらくした時に、お釈迦様に代わり「真意」を明らかにしてくださった方がいました。それが龍樹菩薩です。「無上の大乗の法」を、龍樹菩薩は世間に宣説せんぜつされたということです。

歓喜地とは

歓喜地かんぎち」とは、菩薩が到達されるさとりの境地のことです。そもそも菩薩とは、悩み苦しんでいるすべての人を救いたいと願い、そのために自分も仏に成りたいと願い、仏に成るための修行に励む人のことです。

菩薩が仏に成るために実践する修行は、六波羅蜜ろくはらみつといいます。

六波羅蜜とは

布施ふせ波羅蜜(完全な施し)
持戒じかい波羅蜜(決まりを完全に守ること)
忍辱にんにく波羅蜜(完全な忍耐)
精進しょうじん波羅蜜(完全な努力)
禅定ぜんじょう波羅蜜(心の完全な集中)
般若はんにゃ波羅蜜(完全な智慧)

これらを完成させる修行を六波羅蜜といいます。波羅蜜とは、完全や完成と解釈される言葉です。

初めて「すべての人を救いたい」という志を立てた菩薩を初発心しょほつしんの菩薩といいます。初発心の菩薩が、六波羅蜜の行を開始してから、これが完成して仏の境地に達するまでには、たくさんの段階があります。初発心の菩薩が六波羅蜜の修行を完成させて仏に成るまでには、52の菩薩の階位を経なければ仏にならないとされています。

52の菩薩の段位

妙覚

等覚

十地とは上位から法雲・善想・不動・遠行・現前・難勝・焔光・発光・離垢・歓喜の10位。

十廻向とは、入法界無量廻向・無縛無著解脱廻向・真如相廻向・等随順一切衆生廻向・随順一切堅固善根廻向・無尽功徳蔵廻向・至一切処廻向・等一切諸仏廻向・不壊一切廻向・救護衆生離衆生相廻向の10位。

十行とは真実・善法・尊重・無著・善現・離癡乱行・無尽・無瞋根・饒益・観喜の10位。

十住とは灌頂・法王子・童真・不退・正信・具足方便・生貴・修行・治地・発心の10位。

十信とは願心・戒心・廻向心・不退心・定心・慧心・精進心・念心・信心の10位。

以上の52位です。これらの段階でそれぞれに六波羅蜜の行の中身を深めなければならないというものです。

その52の段位の中でも「歓喜地」とは、十地の最初、第一地(初地位)のことを指します。下から数えて41番目の段階になります。この境地に到達すると何が真実であるかということが明確に体得され、間違いなく仏に成れるという確信が得られるといわれています。お経には、「この確信が得られますと何にもたとえようのない喜びがわき起こってくる」と説かれており、この境地を「歓喜地」と名づけられています。

浄土真宗の歓喜地とは

ここからは親鸞聖人の教えの上で、この歓喜地をどのように理解されたのかを明らかにしていきます。「歓喜地」とは、迷える私達が自らの修行によって到達する境地ではありません。阿弥陀仏の願いによって、自分が間違いなく浄土に往生させてもらえること、そのこと喜べるようになれるとき、それが「歓喜地をしょうする」とお示しくださっています。

阿弥陀仏よりたまわる御信心を素直に受け取り、施し与えられている「南無阿弥陀仏」が私の耳に届いた時に、すでに「歓喜地」であると聖人はお示しくださっています。

「正信偈」の「宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽」では、龍樹菩薩が本願の念仏を心から喜べる身になられ、そのことによって「安楽国」すなわち「阿弥陀仏の極楽浄土」に往生するということが、この2句に込められている親鸞聖人のお心です。

「正信偈」には、「歓喜」とか「慶喜きょうき」とか、喜びの気持ちを表わすお言葉が随所に見られますが、それは念仏を喜ばれた親鸞聖人のお気持ちが率直に表明されています。

こうやって教えに触れることは、本当にうれしいことなのだということを今もなお「お育て」くださっているのです。

正信偈の出拠

『教行信証』真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。
『十住毘婆沙論』菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、われまたさだめてまさに得べし〉と。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳います。われまさにかならずかくのごときの事を得べし。なにをもつてのゆゑに。われすでにこの初地を得、必定のなかに入れり。

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